東成の各地域を取材し、歴史書には載っていないような名所・スポットを紹介します! 1/東小橋 | 2/大 成 | 3/今 里 | 4/中 道 | 5/北中道 | 6/中 本 | 7/東中本 | 8/神 路 | 9/片 江 | 10/深 江 | 11/宝 栄 |
1/東小橋地区~ 公園と土俵とそして地域 ~ |
昭和34年にできた東小橋公園(JR環状線沿い玉造駅と鶴橋駅の中間に位置する)。9,600㎡という区内でも群を抜いて広い、その広い敷地一杯に木々が植えられ緑あふれる公園です。
東小橋公園といえば、相撲の土俵が頭に浮かぶのですが、公園に土俵というのは、ちょっと他では思いつかないですよね。この土俵、今から22年前に青少年団体をはじめとした「地域の力」で作られました。安治川部屋が大阪市に寄贈し、大相撲大阪場所では「安治川部屋」の練習場所として、また、青少年団体や個人の方が練習の場として活用。変わったところでは、夏の盆踊り大会のやぐらとして使用されています。さらに、公園内には桜の木も多く、毎年、桜の季節には連合町会の世話で「桜花祭」が開催され、地域外からも大勢花見に来られます。そして、土俵から離れ、公園を見渡すとゲートボール場がありました。東小橋連合では、古くからゲートボールが盛んで、全国優勝するほどのチームもあるそうです。 さまざまな形で地域とかかわっているこの公園、地域に愛されていることが伝わってきます。40年前から地域の方々がボランティアで公園清掃に熱心に取り組んでこられ、現在でも町会・老人会・女性会・PTA等の団体に加え、周辺企業も公園の清掃をしておられます。 最後に、東小橋公園愛護会会長は、今後も更に地域に愛される公園を目指し、桜の木の枝一本までも大切にしていきたいと語っておられました。 |
2/大成地区~あの熊澤天皇一家が東成にお住まいに! ~ |
明治の終わり、天皇正閏説が唱えられた。その際、名古屋市在住の熊澤氏が我こそが天皇と名乗りをあげた。ここで歴史のお勉強です。今よりさかのぼること670年ほど前、後醍醐天皇・足利尊氏・楠正成らが鎌倉幕府を倒したが、後醍醐天皇の進める「建武の新政」」に足利尊氏が離反、京都を占領し光明天皇を即位させた。後醍醐天皇も吉野に逃れ、これより京都の北朝・吉野の南朝とに別れ、60年にわたり南北朝時代が続いた。話は戻りますが、熊澤さんはその南朝の直系だというのだ。有力学者たちもこれを認め、全国を遊説してまわるほどのブームとなった。しかしながら、結局は、北朝系である現在の天皇家が唯一の天皇ということで事はおさまった。 ここからが本題、時は経ち、昭和の戦後、再び「南朝の直系 熊澤天皇」の名前が世間を賑わすことに。熊澤寛道(くまざわひろみち)氏が名乗りをあげたのだ。その名はマッカーサー指令部にも上ったほどで、またもや全国を遊説し一大ブームとなった。熊澤寛道氏は「われこそ正統」と昭和26年に裁判まで起こしたが、「天皇は裁判権に服さない」という判決がくだされた。この時の熊澤氏の住所が「東成区大成通・・・」と記録にある。なんと、このお話を伺った小川治海大成連合町会長のお隣に「熊澤天皇一家」が住んでいたのである。ブームのさなかに移ってこられ、数年後引っ越されたそうです。玄関には菊の御紋が飾られ、寛道氏はいつも紋付はかま姿だったそう。その一番下の息子さんが大成小学校に通っていたころのあだ名が、なんと「皇太子」!その後、彼は将棋の駒作りの修行をし、現在では立派な職人になられたとのこと。その駒はプロの一流棋士から認められるほど。彼の名刺の肩書きには「南朝研究家」と書かれてあるそうです。 |
3/今里地区~ 草相撲 ~ |
今でこそ、立派な建物が建っている東成区役所周辺は、かつては沼地でレンコン畑になっていたこと、現在の東成警察署の辺りは昔は空き地で草競馬が行われていたことなど、いろいろと面白い話が出てきました。そんな中でも、余暇の楽しみの一つとして「草相撲」が行われていて、話をお伺いした田中雄今里連合町会長のお祖父様が草相撲の力士だったそうです。ですので、草相撲について根掘り葉掘りと話をお聞きしたのですが、なにぶん会長のお祖父さんの時代、会長が生まれていない時代の話。化粧回しと番付表らしきものは、会長は見たことがあるそうですが、開催されていた場所など詳しい話には至りませんでした。 それならばと、取材後に調べてみたのですが、分かったのは大正時代に建てられた「草相撲力士の墓」が存在するということくらいで、この力士の墓が今回伺った話と関連するかどうかは分かりませんでした。草相撲について詳しい話や関連する話が分りましたら、本欄で紹介したいと思います。 |
4/中道地区~釜戸(かまど) ~ |
中道(特に今のJR玉造駅周辺)は戦後5年を過ぎてなお、空襲での爪あとも未だいえず、いたるところ雑草の生い茂るあきちだらけだったそうです。今で言う1班(20~30世帯)の地域に建物が、なんとたったの1、2件と言うのだから昭和20年5月15日に玉造・中道・南中本が受けた空襲の被害のすごさがうかがえます。玉造地区は戦災復興土地区画整理事業地区に指定され、昭和23年に事業がスタートしました。 それから数年後の昭和26年に中道に引越してこられた方の話、一戸建を新築したらその当時は新築標準装備はなんと「釜戸」だったのです。木工所を営んでいたため、近所の方々は「釜戸」に使用する廃材を求めてこられていたそうです。当時のコミュニティの場は、駅・市場・銭湯そして「釜戸」だったのかもしれません。ちなみに2年後には都市ガスにかわったそうです。 |
5/北中道地区~国鉄、鉄道用地廃案の名残 ~ |
取材の過程で地域の地名に話が移り、徳井一夫北中道連合町会長が何枚かの古い地図のコピーを持ち出して説明をしてくれました。年代を特定できないが、その中の一枚に道路用地を思わせる帯状の空白部分が記された地図。質問しようと思った矢先、「これは、国鉄時代の前に玉造から放出まで鉄道を敷くための用地だったようですよ。」と徳井会長。思わず「えっ。」こんな話聞いたことがない。
取材終了後、裏付けをと思いいろいろ調べたのですが、その中で分かった事は、図書館に協力をお願いして問題の地図を調べてもらった結果、市立中央図書館所蔵の「大正7年 西部逓信局逓信協会大阪支部発行の大阪番地入地図」であることが分かりました。その地図の空白部分にははっきり「鉄道用地」と記されていました。実際の地図を勝手に使うわけにはいかないので文章で説明しますと、現在の緑橋レックスマンションの横を緑橋駅に向かって斜めに走っている道路の北側を平行するように斜めにその用地が走っており、平野運河の東約100mのところで途切れています。その斜め線上玉造駅方面の北中道校下に飛び地があり、その空白部分に「鉄道用地」と記されています。分かっていただけましたか? 調べた範囲はここまでで、どういう経緯で立案され、廃案となったのか分かりませんでした。しかし、はっきりしているのはその一部が北中道校下で民営化後も用地として残っていたということです。 |
9/片江地区~ ゆずり葉の道 ~ |
全長1200メートルのゆずり葉の道 | 昭和58年に「ゆずり葉の道」が完成。特徴は道路の両側歩道部分がジグザグに車道に突き出しているため、スピードを出すと右に左にと小刻みにハンドルを回さなければ走れず、徐行しかできないよくできた道なのです。いまでは住宅地でよく見かける道路ですが、当時としては日本一の長さを誇ったそう。 ここで「ゆずり葉の道」大今里南4~6丁目にまつわる面白い話!ある人が住居表示を頼りに家を探していた時、なぜか表札が見当たらず困ったと。実は当初は道路と生活用水路が平行して走っていたのですが、埋め立て道路にしてしまったのです。もちろん川側の家は川に背を向け建っていましたから、ある人は困ってしまった訳です。今ではほとんどの家が建かえやリフォームしてしまい、ほんのわずかその面影を残すのみです。 |
10/深江地区~ 池からでてきた南小路のお地蔵さん ~ |
南小路地蔵尊 | 今は亡き人間国宝の角谷圭一氏(鋳物茶釜で有名)も幼き頃、家の前に流れるこの用水路で、毎朝顔を洗っておられたそうです。 貯水池も多く、その中のひとつ、通称「四つ池」にまつわる面白い話があります。現在は埋め立てられ南深江公園となっているこの池ですが、今から100年ほど前に池さらいでお地蔵さんが引き上げられたのです。正確には大きな石だったのですが・・・誰が言い出したかお地蔵さん、確かにその石、よく見るとお地蔵さんに見えなくもない。しかしながら、100年もの間、深江の人々に愛されたこのお地蔵さんは、現在では「南小路地蔵尊」として立派に人々を見守っているのです。 |
工事中~ 取材後アップします ~ |
中本、東中本、神路、宝栄の各地区はしばらくお待ちください。 |