わがまち百科

平野の黄金水    所在地 平野東2-11(平野公園内)
平野はもともと低湿な土地柄でそのため井戸水の水質が悪く、そのままでは飲用に耐えなかった。しかし、この井戸は良質なの水に恵まれ、多くの住民に利用された。坂上廣野麿により荘園として開かれて以来上水道が普及するまで、付近住民にとり貴重な飲料水であった。また、平野の酒造業にも利用されるなど自治都市平野郷の発展を支える大きな役割を果たした。
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全興寺(せんこうじ)    所在地 平野本町4-12-21
平野がまだ広々とした野であったころ、ここに薬師堂が建てられ、そこを中心に人が住みはじめ、平野の町がしだいに広がっていったといわれる。 本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている。また、この寺には、 真田幸村が樋之尻口の地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという伝説をもつ「首の地蔵尊」湛慶(たんけい)作と伝えられる「太子の像」がある。また境内には、地獄堂や「ほとけのくに」の水琴窟など、見どころがいっぱいです。
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大念仏寺(だいねんぶつじ)    所在地 平野上町1-7-26
融通念仏宗の総本山で、大治2年(1127年)聖応大師(良忍上人)が建立したものである。本堂は、木造の建物では大阪府下最大のものです。当寺には国宝「毛詩鄭箋残巻」、重要文化財「融通念仏勧進帳」等があり また、亀が戻してくれた亀鉦や幽霊の片そでなどが、寺の宝として伝わっています。 総本山特別行事として、1・5・9月のそれぞれ5日の阿弥陀経万部会はことに有名です。
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平野駅跡プロムナード平野環濠跡    所在地 平野本町2-3
このプロムナードはチンチン電車の愛称で親しまれた、南海平野線(大正3年開通~昭和55年廃止)の軌道跡地に設置された。(昭和58年4月に完成)
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坂上廣野麿の墓    所在地 平野市町1-8(坂上公園内)
平安朝の初め(800年頃)蝦夷との戦いに武功をたてた坂上田村麿の第2子廣野麿が朝廷から杭全庄を賜り、この地を領有した。廣野麿は嵯峨、 淳和の二帝つかえ、右兵衛佐に任じられこの地に永住し、天長5年(828年)3月9日に亡くなった。 また、当家から分かれた末吉家、土橋家、成安家をはじめ七名家が、平野を分割し治め一族は平野と共に繁栄した。
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平野環濠跡    所在地 平野宮町2-1(杭全神社東側)
平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは、洪水の調節池としての役割をもってつくられたと考えられる。 町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になってたところもあった。濠は平野川ともつながっていたので、舟運も開け、繁栄の基礎ともなった。 また、町の13の出入口から街道が各地に通じ、平野は水陸両方の交通の 要衝でもあった。 なお、河骨池(こおのいけ)周辺には船溜があり、平野川を上下する柏原船 の発着で賑わった。
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杭全神社    所在地 平野宮町2-1-67
平安時代の初め貞観4年(862年)に坂上廣野麿の子当道が素盞鳴尊を 氏神として祀ったのが始まりといわれ、平野郷一円の守護神として信仰をあつめた。第二殿第三殿は永正10年(1513年)造営の記録があり第一殿とともに重要文化財に指定されている。 また、境内には、全国で唯一、連歌所が残っており、市の文化財に指定されている。大くすの木は樹齢850年以上と伝えられ、府の天然記念物に指定されている。
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花塚山古墳    所在地 瓜破東4-4(瓜破霊園内)
この古墳は5世紀頃、この地域の氏族によってつくられた古墳で、同じ頃築造された古市、百舌鳥の大古墳群や、長原の小型方墳群とは形式が異なる。市内に現存する数少ない古墳の一つである。
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真田幸村休息所跡    所在地 長吉長原4-8
大坂夏の陣で藤井寺に出陣しその戦さの帰路、幸村は志紀長吉神社に 六文銭の軍旗を奉納し今後の戦勝を祈願した。その時、神社の馬場さきに休憩した所と伝えられている。